神経科学
空間認識能力と数学的思考力の相関に関する神経科学的アプローチ
はじめに――「図形が苦手」は数学全体の問題かもしれない 「うちの子は計算はできるのに、図形の問題になると途端にできなくなる」――保護者の方から、このようなご相談をいただくことがあります。あるいは逆に、「図形は得意だが文章題が苦手」という生徒もいらっしゃいます。 これらの現象は、単なる単元ごとの得意・不得意として片づけてよいものでしょうか。近年の神経科学研究は、空間認識能力と数学的思考力の間に、従来考えられていた以上に深い神経基盤レベルでの関連があることを明らかにしつつあります。 本稿では、脳科学の知見に基づいて空間認識能力と数学的推論の関係を解説し、そのうえで空間認識力を日常的に鍛えるための具体的なトレーニング方法をご提案いたします。 1. 空間認識能力とは何か――基礎概念の整理 1-1. 空間認識能力の定義と下位分類 空間認識能力(spatial ability / visuospatial ability)とは、物体の形・位置・方向・動きを心の中でイメージし、操作する認知能力の総称です。この能力は、日常生活では地図を読む、家具の配置を考える、駐車スペースに車を入れるといった場面で使われます。 心理学では、空間認識能力をさらに以下のような下位能力に分類します。 空間的可視化(spatial visualization):複雑な空間情報を心の中で段階的に操作する能力。展開図を見て立体を想像する、断面を予測するなどの課題で測定されます。 心的回転(mental rotation):物体を心の中で回転させ、異なる角度から見た姿を判断する能力。Shepard & Metzler(1971)の古典的実験で広く知られるようになりました。 空間的定位(spatial orientation):自分自身の位置や方向を空間の中で把握し、異なる視点からの見え方を判断する能力。 1-2. 数学における空間認識の関与 数学は一見すると数や記号を操作する学問のように思えますが、多くの領域で空間認識能力が深く関与しています。 幾何学:図形の性質、合同・相似の判断、空間図形の把握には直接的に空間的可視化が必要です。 代数:数直線上での数の大小関係、関数のグラフの形状把握、座標平面上の操作には空間的な表象が関わります。 算数の基礎概念:繰り上がり・繰り下がりの理解、分数の量的イメージ、割合の直感的把握にも空間的な数量感覚が関与することが研究で示されています。 つまり、空間認識能力は「図形問題を解くための力」にとどまらず、数学的思考全般の基盤となる認知能力であると位置づけることができます。 2. 神経科学が明らかにした脳内メカニズム 2-1. 頭頂葉――空間認識と数量処理の交差点 空間認識能力と数学的思考力が脳のどこで結びつくのかを理解するうえで、鍵となるのが頭頂葉(parietal lobe)、特にその中の頭頂間溝(intraparietal sulcus: IPS)と呼ばれる領域です。 フランスの神経科学者スタニスラス・ドゥアンヌ(Stanislas Dehaene)らの研究は、頭頂間溝が数量の表象(「3は2より大きい」という直感的理解)において中心的な役割を果たしていることを明らかにしました。注目すべきは、この同じ領域が空間的な情報処理にも深く関与しているという点です。 機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いた研究では、数量の比較課題と空間的な判断課題の双方において、頭頂間溝の活動が共通して観察されることが繰り返し報告されています。このことは、数の処理と空間の処理が、脳内で共通の神経基盤を少なくとも部分的に共有していることを示唆しています。 2-2. 数の空間的表象――「心の数直線」仮説 私たちが数を思い浮かべるとき、無意識のうちに空間的な配置をイメージしていることが、認知心理学の実験で確認されています。多くの人は、小さい数を左側に、大きい数を右側に配置する傾向があり、これはSNARC効果(Spatial-Numerical Association of Response Codes)と呼ばれています。 Dehaene, Bossini, & Giraux(1993)の研究に端を発するこの知見は、数量の認知が本質的に空間的な処理と結びついていることを示す重要な証拠です。つまり、数学的思考は純粋に抽象的な記号操作ではなく、空間的な直感と密接に連動しているのです。 2-3. 空間認識トレーニングが数学力に与える転移効果 空間認識能力と数学的思考力が神経基盤を共有しているならば、空間認識力を鍛えることで数学力も向上するのではないか――この仮説を検証した研究が蓄積されています。 Cheng & Mix(2014)は、小学生を対象に心的回転のトレーニングを実施し、トレーニング後に計算課題(特に繰り下がりを含む引き算)の成績が向上したことを報告しました。この研究は、空間認識能力の向上が数学の非空間的な領域にも転移しうることを示す先駆的な知見です。 さらに、Uttal et al.(2013)のメタ分析では、空間認識トレーニングの効果が確認されるとともに、その効果が訓練した課題以外の空間課題にも転移すること、さらにトレーニング終了後も一定期間持続することが示されています。 2-4. 発達的視点――空間認識能力の臨界期と可塑性 空間認識能力は生得的に固定されたものではなく、経験と訓練によって発達する可塑性のある能力です。しかし、その発達には時期による感受性の違いがあります。 幼児期から児童期にかけては空間認識能力が急速に発達する時期であり、この時期の空間的な遊びや活動の経験が、その後の空間認識能力の基盤を形成すると考えられています。ただし、空間認識能力の可塑性は成人期にも保たれていることが研究で確認されており、どの年齢からでもトレーニングによる改善は可能です。 3. 空間認識力を鍛える具体的なトレーニング 3-1. パズルと構成遊び 空間認識能力を鍛える最も基本的な活動は、パズルや構成遊びです。以下のような活動が効果的です。 (1)ジグソーパズル ピースの形と絵柄の両方の情報を統合し、全体像を構成する作業は、空間的可視化を直接的に鍛えます。年齢に応じてピース数を増やしていくことで、段階的に負荷を高めることができます。 (2)タングラム 7つの決まった形のピースを組み合わせて指定された図形を作るタングラムは、形の回転・反転の操作を繰り返し要求するため、心的回転能力の向上に特に効果的です。 (3)ブロック・積み木 立体的な構造物を組み立てる活動は、三次元空間における位置関係の理解を促進します。Verdine et al.(2014)の研究では、幼児期のブロック遊びの質が、その後の空間認識能力および数学的能力と正の相関を示すことが報告されています。 3-2. 折り紙 日本の伝統的な遊びである折り紙は、空間認識トレーニングとして極めて優れた特性を持っています。…
マルチタスクが学習効率に与える負の影響:神経科学的視点から
はじめに――「ながら勉強」は本当に効率的なのか 音楽を聴きながら英単語を覚える。LINEの通知に返信しながら問題集を解く。動画を流しながら教科書を読む――こうした「ながら勉強」は、多くのお子さまにとって日常的な学習スタイルになっているかもしれません。 お子さまに理由を尋ねると、「同時にやったほうが時間を有効に使える」「音楽があったほうが集中できる」といった答えが返ってくることも少なくないでしょう。しかし、神経科学と認知心理学の研究は、こうした主観的な実感とは異なる事実を繰り返し示しています。人間の脳は、複数の認知課題を同時に処理するようには設計されていないのです。 本稿では、「ながら勉強」がなぜ非効率なのかを、注意の分割コストとタスクスイッチングコストという二つの概念を軸に解説いたします。Ophir et al.(2009)によるメディアマルチタスカーの研究や、前頭前皮質の処理限界に関する知見を手がかりに、集中学習の重要性を科学的に裏付けてまいります。 1. マルチタスクの基礎理解:脳は「同時処理」をしていない 1-1. マルチタスクの定義と日常的な誤解 「マルチタスク」という言葉は、もともとコンピュータ科学の用語であり、一つのプロセッサが複数の処理を並行して実行することを指します。この概念が人間の行動にも転用され、「複数の作業を同時にこなすこと」という意味で広く使われるようになりました。 しかし、認知科学の知見が明らかにしているのは、人間の脳は、注意を要する複数の課題を真に「同時」に処理しているわけではないという事実です。私たちが「マルチタスク」と感じているものの正体は、多くの場合、二つ以上の課題のあいだで注意を素早く切り替える行為――すなわちタスクスイッチング――にほかなりません。 歩きながら会話をするといった、高度に自動化された行動と意識的な処理の組み合わせは可能です。しかし、英文を読解しながらSNSのメッセージを理解するといった、いずれも注意資源を要する二つの課題の同時遂行は、脳の構造上、極めて困難なのです。 1-2. 注意のボトルネック理論 この制約を理解するための古典的な枠組みが、注意のボトルネック理論です。人間の情報処理過程には、同時に処理できる情報量に上限がある「ボトルネック(瓶の首)」が存在し、複数の課題が同時にこの狭い通路を通ろうとすると、一方が待たされるか、双方の処理速度が低下します。 心理学者ハロルド・パシュラーの研究(1994)は、二つの課題への反応を短い間隔で求められた場合、二つ目の課題への反応が遅延する「心理的不応期(Psychological Refractory Period)」が生じることを実験的に示しました。この遅延は、注意という資源が有限であり、一つの課題に割り当てられているあいだは別の課題に十分な処理を行えないことの証左です。 2. 注意の分割コストとタスクスイッチングコスト:二重の損失 2-1. 注意の分割コスト(Divided Attention Cost) 注意の分割コストとは、一つの課題に集中している場合と比較して、複数の課題に注意を分散させた場合に生じるパフォーマンスの低下を指します。 この現象は、日常的な場面でも観察できます。たとえば、静かな環境で教科書を読んでいるときと、テレビの音声が聞こえる環境で同じ教科書を読んでいるときでは、後者のほうが内容の理解度が低下することは、多くの方が直感的にも理解されるでしょう。 認知心理学の実験では、注意を分割した状態での学習は、情報の符号化(エンコーディング)の質を低下させることが繰り返し確認されています。符号化とは、新しい情報を脳内で処理し、長期記憶に転送するための準備段階です。注意が分割されると、この符号化が浅くなり、結果として記憶の定着率が低下します。 カリフォルニア大学ロサンゼルス校のRussell Poldrack らの研究(2006)は、この点をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いて神経科学的に実証しました。単一課題に集中して学習した場合、情報は海馬(かいば)を中心とする記憶システムを通じて処理されます。海馬を介した記憶は、柔軟に想起でき、応用的な問題にも対応できる「宣言的記憶」として蓄えられます。 一方、注意が分割された状態で学習した場合、情報処理の経路が海馬から線条体(せんじょうたい)へと移行する傾向が観察されました。線条体を介した記憶は、特定の文脈に依存した「手続き的記憶」に近い性質を持ち、異なる文脈での応用が困難になります。つまり、「ながら勉強」で覚えた知識は、テストのような異なる状況では思い出しにくくなる可能性があるのです。 2-2. タスクスイッチングコスト(Task-Switching Cost) タスクスイッチングコストとは、ある課題から別の課題へと注意を切り替える際に生じる時間的・認知的な損失を指します。この損失は、切り替えのたびに累積していきます。 ミシガン大学のJoshua Rubinstein らの研究(2001)は、課題の切り替えに伴うコストを実験的に定量化しました。被験者が二つの課題を交互に遂行する場合、それぞれの課題を単独で遂行する場合と比較して、全体の所要時間が有意に増加することが示されています。 タスクスイッチングコストが生じる原因として、研究者たちは主に以下の二つのプロセスを挙げています。 第一に、「目標の再設定(Goal Shifting)」です。課題を切り替えるたびに、脳は「いまから何をするのか」という目標を更新しなければなりません。勉強からSNSへ、SNSから勉強へと切り替えるたびに、この再設定が発生します。 第二に、「ルールの有効化(Rule Activation)」です。新しい課題を遂行するためのルールや手順を活性化し、前の課題のルールを抑制する必要があります。数学の問題を解いていた脳が、突然LINEのメッセージを読み解くモードに切り替わるとき、使用するルール体系がまったく異なるため、この切り替えに認知資源が消費されます。 これらのプロセスは一回あたりでは数百ミリ秒から数秒という短い時間に見えますが、一日の学習時間のなかで何十回、何百回と繰り返されれば、累積的な損失は無視できない規模に達します。 3. Ophir et al.(2009)の研究:メディアマルチタスカーの認知特性 3-1. 研究の概要と実験設計 マルチタスクが認知能力に及ぼす影響を検証した研究のなかで、特に広く引用されているのが、スタンフォード大学のEyal Ophir、Clifford Nass、Anthony Wagner らが2009年に Proceedings of the National Academy of Sciences(PNAS) に発表した論文です。 この研究では、日常的に複数のメディアを同時に使用する頻度が高い人(ヘビー・メディアマルチタスカー:HMM)と、その頻度が低い人(ライト・メディアマルチタスカー:LMM)を比較し、両者の認知能力にどのような違いがあるかを検証しました。 研究チームは、被験者のメディアマルチタスキング指標(MMI)を質問紙によって測定し、スコアの上位群と下位群を抽出して、以下の三種類の認知課題を実施しました。 3-2. 三つの認知課題と結果 (1)注意のフィルタリング課題 画面上に赤い長方形と青い長方形が表示され、赤い長方形の向きの変化だけに注意を払い、青い長方形(妨害刺激)を無視するよう指示されました。結果として、ヘビー・メディアマルチタスカーは、無関係な妨害刺激の影響を受けやすく、注意のフィルタリング能力が低いことが示されました。 (2)ワーキングメモリ課題 連続して提示される文字列のなかから、特定の条件に合致する文字を記憶する課題が行われました。ここでも、ヘビー・メディアマルチタスカーは、記憶すべき情報と無視すべき情報の区別が不得意であるという結果が得られました。 (3)タスクスイッチング課題 数字と文字の組み合わせに対して、課題のルールを切り替えながら反応する課題が実施されました。直感に反する結果として、日常的にタスクの切り替えを多く行っているはずのヘビー・メディアマルチタスカーが、タスクスイッチングにおいてもパフォーマンスが低いことが明らかになりました。 3-3. 研究が示唆する重要な知見 Ophir et al. の研究が示した最も重要な知見は、メディアマルチタスキングの習慣が、認知制御能力の全般的な低下と関連しているという点です。…