エビングハウス

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教育研究・学習研究

エビングハウスの忘却曲線に対する現代の学術的再評価

はじめに――「24時間で74%忘れる」は本当か 「人は学んだことの74%を24時間で忘れてしまう」――教育関連の書籍やインターネット上の記事で、この言い回しに出会ったことのある方は少なくないのではないでしょうか。いわゆる「エビングハウスの忘却曲線」として知られるこの知見は、復習の重要性を説明する際にしばしば引用されます。 しかし、この広く流布している言説には、原典の内容から大きく逸脱した誤解が含まれています。エビングハウスの実験が実際に測定していたのは「記憶の残存量」ではなく、「再学習にかかる時間の節約率」という、まったく異なる指標でした。 本稿では、まずエビングハウスの原典に立ち返って実験の正確な内容をご紹介し、次に現代の認知心理学がこの古典的研究をどのように再評価しているかを解説いたします。そのうえで、忘却に関する科学的知見を日々の学習計画にどのように活かせるかをご提案します。 1. エビングハウスの実験――原典が示していること 1-1. 実験の設計と方法 ヘルマン・エビングハウス(Hermann Ebbinghaus, 1850–1909)は、ドイツの心理学者です。1879年から1884年にかけて記憶に関する実験を行い、1885年に『記憶について(Über das Gedächtnis)』としてその成果を発表しました。 エビングハウスが用いた素材は「無意味綴り(nonsense syllables)」と呼ばれるものです。これは、子音・母音・子音の3文字で構成された、意味を持たない音節(たとえば「DAX」「BUP」「ZOL」のようなもの)です。約2,300組の無意味綴りの中から13個をランダムに選び、メトロノームのリズムに合わせて読み上げ、完全に暗唱できるようになるまで学習するという方法が取られました。 無意味綴りを用いた理由は明快です。日常的な単語や文章であれば、学習者が既に持っている知識や連想が記憶を助けてしまいます。意味を持たない音節を使うことで、純粋な記憶のメカニズムを観察しようとしたのです。 なお、この実験においてきわめて重要な事実があります。被験者はエビングハウス自身のただ一人だけでした。現代の心理学研究の基準からすれば、被験者が1名(N=1)の実験は一般化可能性に大きな制約を伴います。 1-2. 「節約率」という概念 エビングハウスの忘却曲線の縦軸が表しているのは、「記憶の残存率」ではなく「節約率(savings)」です。この点が最も広く誤解されているところです。 節約率とは、再学習に要する時間がどれだけ「節約」されたかを示す指標であり、次のように算出されます。 節約率(%) =(初回学習時間 − 再学習時間)÷ 初回学習時間 × 100 たとえば、ある無意味綴りのリストを最初に覚えるのに60分かかったとします。24時間後に同じリストを再学習したところ、36分で再び完全に暗唱できるようになりました。この場合、24分の節約が生じたことになり、節約率は40%(24 ÷ 60 × 100)となります。 つまり、「24時間後の節約率が26%」という実験結果は、「記憶の74%が消失した」ことを意味するのではありません。「再学習の際に、初回と比較して26%の時間を節約できた」ということを示しているのです。 1-3. 実験データの概要 エビングハウスの実験で得られた節約率の推移は、おおむね以下のとおりです。 経過時間 節約率 直後 100% 20分後 約58% 1時間後 約44% 9時間後 約36% 1日後 約26% 2日後 約28% 6日後 約25% 31日後 約21% このデータから読み取れるのは、節約率は学習直後から急速に低下するものの、1日を超えたあたりからはほぼ横ばいになるということです。さらに注目すべきは、31日後でも21%程度の節約率が残存しているという点です。完全に忘却した状態(節約率0%)には到達しておらず、一度学んだ情報の「痕跡」は長期にわたって保持されていることが示唆されています。 2. 通説の誤解を正確に整理する 2-1. 三つの代表的な誤解 エビングハウスの忘却曲線をめぐっては、主に以下の三つの誤解が広く流布しています。 誤解1:縦軸は「記憶の残存率」を示している 前節で詳述したとおり、縦軸が示しているのは節約率であり、記憶がどれだけ残っているかを直接測定したものではありません。「1時間後には56%を忘れている」「1日後には74%を忘れている」といった記述は、節約率を記憶の残存率と取り違えた解釈です。 誤解2:あらゆる学習内容に同じ忘却パターンが当てはまる エビングハウスが実験に用いたのは、意味も文脈も持たない無意味綴りです。しかし、実際の学習場面で扱う情報――歴史的事象の因果関係、数学の定理の論理構造、英語の文章――には、意味的なつながりや既有知識との関連があります。意味のある情報は、無意味綴りと比較して忘却の進行がはるかに緩やかであることが、その後の多くの研究で確認されています。 誤解3:忘却曲線のデータはすべての人に普遍的に当てはまる エビングハウスの実験は、エビングハウス自身を唯一の被験者とした自己実験です。個人差、年齢差、動機づけの差異といった変数は考慮されていません。この実験から「人間は一般的にこのように忘れる」と結論づけるには、慎重さが求められます。 2-2. なぜ誤解が広まったのか 「1日で74%忘れる」というフレーズは、端的で記憶に残りやすく、復習の必要性を訴える際にきわめて説得力のある数字として機能します。教育関連のビジネスにおいて、学習者の不安に訴える便利な「物語」として繰り返し引用されてきた面があることは否めません。 ただし、誤解を正す際に留意すべき点もあります。「忘却曲線は節約率を示すものであって忘却とは無関係だ」という主張は、矯正の行き過ぎです。節約率が時間とともに低下するということは、再学習の容易さが失われていくことを意味し、これは記憶の減衰と無関係ではありません。一度学んだ内容であっても、復習をしなければ想起が困難になっていくという知見そのものは、忘却曲線から正当に読み取ることのできる示唆です。 3. 現代の認知心理学による再評価 3-1. Murre & Dros(2015)による追試 エビングハウスの実験結果は、130年以上を経て現代の研究者によって検証されています。アムステルダム大学のMurre & Drosは、エビングハウスの実験手法を忠実に再現した追試を実施し、2015年に学術誌『PLOS…

2026年3月19日 髙橋邦明
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